午前2時。眠る前に書く。今夜は家に俺と神社だけ。
夕方から色々と作業をしていた。
新しいTシャツの版を作るためしょうちゃんと木枠を探しに出る。
ホームセンターに手頃なやつがあった。
そのボード部分をぶち抜いてシルクスクリーンを貼る。
19時からニ時間の練習の後作業に戻った。
次回のライブからW.H.CのNJがギターで参加する。
四人編成のピアノガールが再び始まるんだ。
プレイ、音作りにも長け理解力もあるNJはやはりバンドにグッと肉を付ける。
理解力という点においては、俺とギタリストは強くそれを持ち合う必要がある。
互いの呼吸を感じるように弾くんだ。
NJとはもう6年ほどの付き合いになり、内2年は共に働いてもいる。
彼となら必ず呼吸が生まれると、俺は思っている。
作業は版が完成した時点で終了した。
手持ちのインクでは思い描く色味が表現出来ないという結論になり、刷るのはまた次回。
家に帰ってから俺は翌日からの沖縄へ向け荷造りをした。
今朝干した洗濯物の中からTシャツを2、3枚掴みカバンへ。
沖縄へ行く目的は知り合いのイベントだった。
四月、俺を鹿児島の知覧へ導いてくれた恩ある人のイベント。
(知覧での話はまたいつか書こうと思っている。)
荷造りが苦手な俺は必要なものを紙に書き出す。
あれとこれと、ひとつ、ふたつ、、。
今は沖縄の国頭群恩納村という地に居る。
古めかしい海辺のホテルの一室。
外から波の音が聞こえる。ベランダに出てその音を録音した。
今は暗闇で何も見えないが朝になればこの景色はどんなだろうか。
このホテルは海抜0メートルを一階とするので実質入り口ロビーがあるのは四階だった。
エレベーターで下に降りてもう真っ暗になったロビーのソファに座る。
明日のイベントは俺は客として行く。
自分が出演しないイベントとはこうも気が楽なのかと思う。
部屋に戻り、波の音を聞きながら眠った。
イベントは昼から夜更けまで行われた。
会場は小高い丘の上の緑に囲まれた敷地。
白い壁の家とその庭に小さなステージ。
坂を下るとすぐ海だった。
その遠い先には残波岬という海岸線があり、かの特攻隊はその岬を目標に飛来したという。
沖縄まで来たのはその岬を見たいという想いもあったからだ。
確かに見えた。
灯台の灯りが薄らと、地平線は永遠のようだった。
この日は6月24日。
ちょうど72年前の6月23日は沖縄戦が終結した日だ。
俺は何も祈らなかった。ただ耳を海鳴りや浜凪に任せていた。
沖縄のテキーラのような強い酒を飲んだ。
テキーラより飲みやすく、爽やかな香り。
恩ある氏も痛風を無視してビールを飲みまくってた。
出演者の中では三線と民謡の二人組が良かった。
劇団ビーチロックという、沖縄の山深い村で自給自足のような生活をしながら演劇に賭す集団もいた。
そのうちの一人、俺より年下のよく笑う青年と話した。
これから先長くは再び会えないだろうが、また必ず会おうと話した。
夜は再びホテルで眠り昼前の飛行機に乗って京都へ帰った。
(あの時俺が見た残波岬)
15時くらいだったか、京都駅は今日も観光客で溢れかえる。
その日の夜にtedとちーこと街へ出た。
神社の一歳の誕生日プレゼントを買いに。
じゃれて遊べる人形とボールと猫じゃらしを買う。
それとハート型の風船を買って神社の記念撮影をしようと話した。
家に帰って風船を膨らませると神社がそのうちの1つを割ってしまい、
どうにもトラウマになったのか酷く風船に怯えていた。
写真は上手く撮れなかったが、妙に楽しい夜だった。
俺が育った町には沖縄戦資料館というものがあった。
俺は両親が遅い家の子らとよくそこに出入りしていた。
館長のおじさんがいつもオヤツにくれるのは黒糖の塊だった。
沖縄戦の最中、住民や兵士が重要な栄養源として食べていたものと同じやつ。
俺にはそれが不味くて不味くて仕方がなかった。
それでも俺たちが食うと館長は嬉しそうだったから食った。
資料館は俺たちにとって放課後の遊び場だった。
しかしどこか恐怖が渦巻いていたというか、
例えばかくれんぼの最中一人で廊下を歩けばおどろおどろしいものを感じたり。
誰かの家で冷たい麦茶を飲みながらファミコンやってる方が断然楽しげなんだが、
俺たちは何故か毎日資料館へ引き寄せられた。
沖縄という場所へ俺はいつか再び赴こうと思う。
その悲哀の歴史を、街や人はどんな風に語るだろうか。
言葉ではなく、背負ってきたそれを俺は感じることが出来るだろうか。
考え過ぎないようにして、俺はやろうとする。
鮮やかでエネルギーに溢れる場所。
そして虐げられてきた場所。
海は青く、空のようで。
思い出せるうちはそう遠くはない距離だろう。